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加藤清正と白山神社!群馬県館林市に嫁いだ娘と会て利根川で不思議な遭遇!

 

現在は埼玉県羽生市の利根川沿い河川工事で

3度移動した白山神社に纏わる加藤清正

知られざる話が気に成ってまとめていきます。

 

加藤清正と言えば熊本の誇りと思っています。

その加藤清正が、埼玉県羽生市

通り徳川家康から江戸城の石垣修復を

手伝うようにとの連絡を受け

娘(あま)に会って江戸へ行く途中の話です。

 

羽生市の観光案内にも出てこない小さな白山神社です。

そんな場所を熊本の人は知る人はいないでしょう。

娘あま(9歳)に会いに行く途中、何人の家来と石工を連れて

関東平野のど真ん中にどうやって来たのか

私なりに推測してみました。

 

加藤清正の長女・本浄院娘(あま)

  • 加藤清正が朝鮮より撤退中途中の壱岐の島で長女誕生
  • 名前:あま(海女さんがとりあげたので)の古屋
  • 誕生日:慶長3年(1598年)11月
  • 結婚:慶長11年(1606年)9歳で榊原康政の長男康勝と結婚
  •    熊本より館林に輿入れの壮麗な様子が「当時の代記」に記載されています
    康勝は慶長20年(1615年)大坂の陣で腫物(痔)が悪化し病没26歳
    実家加藤家(熊本に戻る)江戸屋敷に入る
    のちに阿部正次の跡取り長男・正澄に再婚した。
    寛永4年(1627年)に阿部正能を生み30歳で死去した。

娘に会う為のルートは

熊本から群馬県館林までの距離1,277kmを馬、籠、家来を

引き連れて、出かけて行ったと思われます。

 

現在は九州自動車道/山陽自動車道吹田山口線と西宮経由

/中央道/圏央道/久喜経由東北道館林間を

走行して混雑が無ければ15時間40分お城迄の時間です。

 

どうやって館林までたどり着いたかは、通行を証明する

 

手形は有ったかは定かでは有りません。

 

しかし、歩いて館林までの最短ルートでも207時間約8日11時間

熊本から阿蘇を抜け大分佐賀関から豊後水道を船で渡り、

愛媛県三崎港で下船して四国愛媛松山~徳島から船に乗り

和歌山港で下船、奈良県を通過し三重県四日市から

名古屋から中津川(中山道)塩尻から岡谷市を通過し

長野県立科町を通過し佐久市から群馬県下仁田町、

富岡町を通過して藤岡市、本庄市では中山道から

外れ利根川沿いを歩き深谷市から現在(熊谷市妻沼町)

から利根川を渡る際は、出来るだけ浅瀬を選んで

歩いたと思われます。

対岸は群馬県太田市を

掠めて大泉町を通過し邑楽町を通過して

館林市市役所(館林城跡)到着です。

現在のルートは熊本から歩いて約8日と10時間で一人旅の場合でする

加藤清正は馬と家来(石工)を引き連れての長旅です。

途中で宿泊するのですから、

現在の費用でどれだけかかったでしよう。

 

利根川で不思議な遭遇!

加藤清正は馬好きでもあり、

熊本から何頭の馬を引き連れていたのかは不明です。

館林で娘と会って、宿泊した滞在期間は不明です。

加藤清正自身かなり長い道中で

体もかなりの疲労が蓄積していた。

江戸へ向かうには群馬県側明和町(下野国邑楽郡川俣)から利根川を

渡る江戸時代は埼玉県羽生市(武蔵の国埼玉郡上新郷村)利根川堤防

 

通過する際は新郷川俣関所を通行する事になっている。

 

川俣の関所は日光裏街道とも言われる利根川の関所として

 

管理は慶長時代は大河内金兵衛、寛永になって忍藩阿部忠秋。

 

文政には松平忠堯が引き継ぎ明治2年に廃関となった。

 

加藤清正はこの利根川を渡り川俣の関所を通過して

 

武蔵の国を見るなり、広い平野で見渡す限り民家は有りません

馬にまたがっていて疲れのせいで高熱が出たとみられ

 

家来が見渡す限り一面が茅原でおおわれて居ました。

家来たちが手分けをしていて誰かいないか

 

当たりを見回っていました。

 

すると、少し離れた場所で焚き火をしている白髪の老人を見つけました。

 

家来たちは老人に近づき声を掛けました。

「ここで何をしているのか?」

「ここで、なんばしとっとか?」熊本弁が出たかは不明

老人は家来に向かって言いました。

ここを通る旅人たちに江戸から15里((60km)に位置します。)二日がかりで

 

川俣の関所まで来れる人たちに、疲れをいやしてもらうために

焚き火で釜をかけてお湯を沸かしている

家来たちはそれを聞き安堵しました。

早々に加藤清正に事情を話して焚き火をしている老人の場所へ連れて行きました。

釜の中の湯煙の立つお湯を継ぎ一杯差し上げました。

飲み干したお湯が加藤清正は不思議なくらい元気になった。

老人にお礼を言って、再び江戸へ向けて出発しました。

 

ところが、旅の途中、輿の中で少し眠りについた時、清正に突如あの白髪老人が現れ

私は白山権現である。この先お前の馬が病死するだろう。と、気をつけなさい

白髪老人はそう言うとすっと消えました。

加藤清正は目を覚ましました。

身の回りや周辺を見回しても白髪老人の姿は有りません。

あれは夢だったのかと思って、両手を合わせました。

加藤清正の行列の一行が、鴻巣市川里町(屈巣村)に差し掛かった時に

今まで元気でいた愛馬が突然病気に罹り、あっという間に死んでしまいました。

ふと加藤清正はあの夢は、雅夢だ汰と思た。

加藤清正は元来た道を引き返し、白髪老人が居た場所へ

急いで戻りました。

しかし、白髪老人のいた場所に戻ってきましたが

その場所には焚き火の灰、白髪老人の姿もなく消えていました。

加藤清正白髪老人のいた場所に偑刀をうずめると

白山神社祀ったという事です。

 

 


埼玉県羽生市新郷の場所に有る

白山神社が加藤清正が祀った伝説の場所です。

途中で病死した愛馬は鴻巣市川里町(屈巣村)で

処分されたと思います。

 

その場所は「馬頭観音」が置かれていますが

ハッキリした場所は不明です。

 

この白山神社は利根川堤防の改修工事が

行われており、最初の場所から3回目の

遷座が行われました。

利根川の堤防工事は昭和34年~35年に

既に2回遷座していました。

今回、令和1年から令和3年に

白山神社が遷座しました。

 

白山神社の祭りの開催は春秋の二回

羽生市上新郷の別所耕地で行われます。

春秋のお焚き上げが行われ

この火にあたると風邪をひかない

また、例年2月5日にはひょっとこ祭あったそうです。(今は中止)

拝礼には「埼玉の神社」(埼玉県神社庁調査団編)から引用

氏子の参拝方法は独特なものだそうです。

私は鳥居をくぐり、その先に神社が有り

その前で、1拝し、右回りに社殿を一巡し、表に至る

更に続けて半ば回り裏手に来ると、

笹を取って社殿の壁にこれを差し込み

トントンと二回壁をたたき、再び表に至る。

これは特別な祈願の場所ではなく、平素でもおこなわれている。

古い参拝形式を伝えていると思います。

 

気に成った場所だったので、散歩がてら

なに神社ともわからず行ってみました。

鳥居には白山神社と明記されていました。

 

その鳥居をくぐり、神社前近くには「邪気を払い

神前を守護する二体の狛犬が有りました。

神殿は新しい場所に設置されたので

化粧直しがされていました。

初めてと有って、参拝させていただきました。

 

加藤清正も遠い熊本から東を向いて参拝してくれたと

思います。

今で言う出張だたのかもしれません。

足となる馬が病死して、日光裏街道を掠め

中山道に出て江戸に向かった。

徳川家康から頼まれた江戸城の石垣の

修復を終えて、無事熊本へ帰ったのでしょう。

ちなみに、皇居の二重橋を作り上げた人たちは

熊本の石工たちであったのです。

白山神社に纏わる昔話、加藤清正がまさか

こんなところまで足を延ばしていたとは

娘(9歳)今で言う小学校3年生の少女です。

今思えば、少しビックリするお話ですね。

最後まで読んでいただき有難うございました。